ベルリン市防衛ドイツ軍には3つの問題が生じていた。第1にドイツ軍がこの5年間に負った損害、第2にベルリン市の地形的特徴、第3にソビエト赤軍の戦術であった。特にベルリン市中央部の大部分はいくつかの水路、公園、及び広大な鉄道関連施設や広く直線でできた道路から形成されており、なおかつ、一部にクロイツベルクの山(海抜66メートル)が存在する程度の平地であり、侵攻を妨げる要害が存在しなかった。また、標準的な住宅のほとんどは煉瓦で造られた19世紀に建設されたもので、通りから石炭を運ぶ馬車やトラックが中庭に入れるように通路がついていた。さらにはその中庭を中心に建物が並んでおり、どこからでも進入できる作りになっていた。武装SSは戦いの間、通りに面した建物を遠距離砲撃で崩して陣地を形成したので街角の急造バリケードを使わなかった[注 5]。そして、ソビエト赤軍戦車の機銃が高い位置の目標を撃つことができなかったので、建物ごとに狙撃兵や機関銃を配置し、さらには窓のある地下室や通りに空いた穴にパンツァーファウストを配置した。これらの戦術はヒトラー・ユーゲントや国民突撃兵らも行った[16][17]。
ソビエト赤軍はそれに対抗するためにタンクデサントを配置、軽機関銃などを装備させたが、これは戦車の射撃範囲を狭めることとなった。そのため、もうひとつの解決策として実行したのは、ドイツ軍狙撃手に対して対空砲を使い、建物には重砲撃(主に152mmと203mm)を浴びせ、通りに面した建物をひとつひとつ掃討していくことだった。戦闘は屋根伝いや屋根裏で行われたり、隣接した建物の穴を抜け、時折壁をぶち抜き(これにはドイツ軍が遺棄したパンツァーファウストが非常に有効であった)、地下室や部屋伝いに行われ、この浸透戦術は戦車を待ち伏せしていたドイツ兵を狩り出した。手榴弾と火炎放射器はこの戦いで非常に効果があったが、ベルリン市民が避難していなかったため、多くの犠牲者を出すこととなった[16][14]。