福島第一原発の水素爆発から一カ月たった十二日。埼玉県加須(かぞ)市の旧騎西(きさい)高校に集団避難する福島県双葉町民に「レベル7」の衝撃 が伝わった。二十五年前のチェルノブイリ原発事故と並ぶ最悪の評価。水素爆発以来、放射能に振り回されてきた避難者の遠藤和子さん(41)は、帰郷の道が 絶たれる不安に駆られた。 (増田紗苗)
「自宅に戻る希望は、ほとんどなくなってしまった」
「深刻な事故」との位置付けに遠藤さんは打ちのめされた。新興住宅街にある自宅は原発の三キロ先。「世界最悪の事故になるかもしれない」。水素爆発が起きた時の予感が、当たってしまった。
遠藤さんの避難生活は「放射能」の用語とともに始まった。
東日本大震災が起きた三月十一日の午後十時半ごろ。眠り支度中、「放射能漏れの恐れがあるので避難してください」と防災無線にせき立てられた。家 族四人、車で避難所の公民館に。「原発は安全安心なはず。どうして」。事態がのみ込めなかった。「もう戻れません」と話す役場の人の言葉が耳に残る。
翌朝、原発から三十キロ圏外の川俣町の小学校へ移った。一緒に避難した人の多くが、東京電力社員や原発作業員の家族。相次ぐ水素爆発の際、当初こそ楽観的な情報も飛び交ったが、ほどなく「危ない。逃げた方がいい」に変わった。周りは一人、また一人と県外へ逃げ始めた。
遠藤さんは避難所のたらい回しという不愉快な思いも味わった。被ばくを疑われたためだ。
三月十五日、避難所の福島北高(福島市)に着いた時のこと。「放射線検査をしていないと入れない」と入所を拒まれた。「水素爆発の前に避難した」と何度説明しても「だめだ」と一蹴された。
収まりがつかないまま、放射線検査をしている福島高(同)へ。到着すると、その日の検査は終わっていた。「車の中で過ごせというのか」。夫(41)が怒りをぶつけた。
県庁で検査していると聞き、駆け付けた。「入所にそんな検査、必要ないですよ」。県職員の言葉にあぜんとした。この職員に別の高校での避難受け入 れを依頼し、訪れたが、またも冷たい仕打ちを受けた。「連絡はない。うちはもういっぱい」。一日で三度目の入所拒否。「疲れと悔しさが込み上げ、涙が止ま らなかった」
高校職員に掛け合って県職員の連絡があったことが判明。ようやく入れたが、体育館は底冷えが厳しく、眠れなかった。
加須市に移転後、生活は落ち着いた。だが夫は原発の下請け会社で働く身。「働き盛りの主人に何かあったら」。夫が浴びる放射能を考えると気持ちが沈む。
見えない放射能につきまとわれる日々。「それでも故郷には戻りたい」。東電や政府には、被災者が再起へ踏み出せる道を示してほしい。「双葉の人は皆、何とか今を生きようとしているから」
- 東京新聞:放射能 振り回され続け 帰郷の道 遠のく:社会(TOKYO Web)