福島県に原発が作られるようになったのは地元がそれを求めたことが大きい。
1960年には福島県議会が東京電力に原子力発電所用地の提供を申し出て、61年には大熊町、双葉町議会が原発誘致の決議をしている。当時、「原発が来ればこのあたりは仙台のように栄える」と言われたそうだ。繁栄への願望が原子力を求めた。
それは福島だけではなく、当時の日本全国がそうだった。原発へのラブコールは日本全国から送られていた。
ところがやがて風向きが変わる。福島第一原発が稼働し、電気を首都圏に送り始めた71年は、まさに米国で盛んになった反原発運動が日本にも飛び火し始めた分水嶺となった。一足先に作られた関西電力の美浜原発で小さなトラブルが続いていたことも原発に対する不安感を増長させた。
こうした風潮の中で、今後、原発が作りにくくなる事態を憂慮した時の田中角栄首相は「電源三法」と呼ばれる電源立地助成制度を作って、原発の建設を加速させようとした。
「東京に作れないものを作る。作ってどんどん東京からカネを送らせるんだ」(『アサヒグラフ』1988年6月10日号)。
田中首相の肝いりで作られた電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法の3つのいわゆる電源三法の制定により、全国の電力使用者が支払う電気料金の一部分を電源立地に環流させることが可能になり、原発立地には目を見張るような大きな公民館が作られ、整備の行き届いた道路が敷かれた。
だが79年のスリーマイル島事故、86年のチェルノブイリ事故を経て、原発に対する不安は増大し、こうした地元振興の助成政策をセットにしても原発用地の新規取得は著しく困難となってしまう。
そんな状況の中で、原発依存を続ける方針を採るなら、既に取得された場所の中で増炉や使用済み燃料の保存を行うしかなくなった。福島第一原発が、敷地内に立ち並ぶ6機の炉が連鎖的に破壊される恐怖で国民をおののかせたのは、そうした過去からの経緯による。
つまり人災化の過程で反原発運動と原発推進の国策、電力会社の施策が絡み合い、リスクを肥大化させてきていたのだ。
”- 反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク:日経ビジネスオンライン (via igi)