赤ちゃん用の石鹸をてのひらで泡立てて、身体中のくぼみとくびれをそっと撫でてやる。そう、洗うというよりも、撫でてやる 感じだ。首や脇の肉付きがどんどんよくなっているのがわかる。洗い終わったらガーゼケットで身体をくるんで、いっしょに湯船につかる。なずなはまだこちら を見つめて、目をそらそうとしない。しばらくすると、丸く開いたさくらんぼのような口から、ほう、という声が漏れ出て、ユニットバスの壁に跳ね返った。ほ う、と私も返事をする。もう一度、ほう、と言ってくれないか。しかし彼女は、やわらかい肌だけでなく瞳まで湿らせて、満足そうに、ぼんやりこちらを見上げ るばかりである。
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堀江敏幸『なずな』
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堀江敏幸の新作は「保育」小説。
これ、お父さんが赤ちゃんをお風呂に入れてる描写じゃないんですね。よんどころない事情で姪をあずかった独 身の、おそらくはかなり高い強度で自分の子どもを持つことはないだろうと予感している(そんなこと書いてないけど、読んでてそう思う)、四十代の男性の描 写なのです。「ユニットバス」が彼らのそのような不自然さをひっそりと映している。彼は静かに、粛々と保育にたずさわる。自宅で仕事をしながら、目の下にべっとりと隈をはりつけ、親でもないのに、もう少ししたら保育所かどこかに預けられるかもしれないのに、だからその献身にはもしかすると意味がないのに、でもそれを気にもせずに。
「ほう、と私も返事をする。もう一度、ほう、と言ってくれないか」。
ここがとてもいい。このぼんやりした期待を、私たちの多くはきっと知っている。
たとえば複雑な感情が複雑さの閾値を超えて自分の人生の端的な真実として根をおろしたとき、あるいは、待ちすぎて待っていることを忘れてしまったとき、私たちはそのような特別な期待を体験する。激しい執着のもたらす胸を刺すような期待ではなく。
その期待は茫漠としているのに独立していて、叶えられなくても持ち主を傷つけない。私たちはただ思う。もう一度、ほう、と言ってくれないか。その期待はそれ自体がうっすらと甘く、願うことだけですでにその持ち主を小さく救っている。そういう心の動きを、愛というのではなかったか。私たちは小さい子を見るとそのことを思い出すから、かわいいかわいいと褒めそやすのではないか。
百数十ページ読んだ段階で、そんなふうに、特別なしかたで静かに届く波がいくつもあった。たとえば、赤ちゃんを抱きあげたときにその頬の当たるのがいつも男のあばら骨だけれども、それでいいのだろうか、とうっすら思う場面。
読 んでいる私は女で、よその子の面倒を何日も見た経験もないけれども、このかすかな不全感はよくわかる。よその子を抱いて、私の腕はおかあさんの腕ではない けれども、いいのだろうか、と思う。私たち他人はおそらく、もしかすると子の実の親でさえ、どこかに完全な保育者のまぼろしを見て、自分がそうでないこと を、薄く不安に思うのだ。
赤ちゃんはそれとは関係なしに泣きわめく、あるいは「満足そうに、ぼんやりこちらを見上げるばかり」。まだ中途までしか読んでいないけれども、読んでいるとなにか話したくなる小説なので、書いた。
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