第二次世界大戦後、ベルリンの周辺地域はソ連の占領地域となったが、ベルリンはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって周辺地域とは別に分割占領され、西側3か国占領地域はソ連占領地域の中に位置する飛地西ベルリンとなった。1948年にはソ連が西ベルリン封鎖を行ったが、西側は空輸作戦でこれに対抗した。
1949年に東西ドイツが分裂して独立し、ソ連占領地区はドイツ民主共和国の首都東ベルリンと なり、西側3か国占領地域はドイツ民主共和国の中の飛び地のまま、形式的には米・英・仏の共同信託統治領ながら、実質的にはドイツ連邦共和国が主権をもっ て実効的に統治する西ドイツ領となった(西ベルリン)。西ドイツ本土と西ベルリンは空路または直通専用道路で往来が可能だったが、形式的には西側3か国の 管理下に置かれたため、テーゲル空港など西ベルリンの空港への乗り入れは米・英・仏の航空会社のみが認められ、ルフトハンザの乗り入れは禁止されていた。
スターリンの死から3か月後の1953年6月、東ベルリンで、直接的にはノルマ引き上げなどを理由とする大規模な反政府デモが起きたが、人民警察とソ連軍によって鎮圧された(ベルリン暴動)。西ベルリンの主要な道路であるシャルロッテンブルク通りはこの事件を機会に「6月17日通り」と改名された(6月17日は暴動鎮圧の日で、旧西独はこの日を「ドイツ統一の日」とした)[4][5]。
東西ドイツの国境が封鎖された後も東西ベルリンの間だけは往来が自由であったため、ベルリン経由で東ドイツから西ドイツへ脱出する人が続出した。労働人口の流出を恐れた東ドイツ政府は1961年8月13日に東西ベルリンの境界線を封鎖。後には西側占領地区と東ドイツとの境界線上にベルリンの壁を建設した。この時代のベルリンは、東西冷戦の最前線であった。また超大国・米ソ両国の戦車が睨み合う場面があった。1989年11月9日、東ドイツ政府は東西ベルリンの境界線を解放し、ベルリンの壁は崩壊した。
”- ベルリン - Wikipedia