とりあえずアメリカでは、本というものは末永く読まれてこそ作る価値があるモノとされている。っつーか、そのために「本」にするんだよ、ってな。今出さなければ売れないものは本の編集者ではなく、雑誌や新聞が、それこそウェブが取り組むべきことであって、本を作る人間が考えなくてはならないことではない。今、こういう本があったら売れるだろうな、と考えるのはたいして難しくない。そんなの編集のプロじゃなくてもわかるだろ。群れと一緒にミーハーなこと追いかけてればいいんだから。そうやって、せっかく何か他とは違う、目新しいものを掘り起こした人の手柄をむしり取って、俺にも稼がせろと群がる。結局そうやって目新しいモノも手垢にまみれ、陳腐になる。
反対に、アメリカの編集者は少なくともこれから1年半〜2年後に読まれそうな企画を考えなくてはならない。入稿してから刊行までに少なくとも半年はかけて、じっくりマーケティングのプランを立てなければいけないからだ。ノンフィクションの本なんて、企画で買ったら、入稿は半年後、ってのが普通。
そしてできればその後もずっと絶版にならず、コンスタントに売れ続ける「バックリスト」の本を作ることを期待されている。ガーッと売れてガーッと売れなくなる本よりも、長期的に粗利が多いからだ。こっちの方が大変だ。時代の波がどちらに向いていて、何が本という形で残っていくべきなのか、いつの時代にも色あせないメッセージを語れる著者は誰なのかを見極めなければいけないのだから。だから、バックリストでロングセラーになっている本をたくさん持っている出版社の方が経営も安定する。
著者は著者で、エージェントを付けなければ編集者に相手にしてもらえない。エージェントは芸能人のマネージャーみたいなもので、印税からコミッションを取る代わりに、著者の才能を引き出し、最大限に活かせるキャリアプランを立ててやるのも仕事だ。本と言えども締め切りはバッチリ契約書に書かれているので、「そのうちね」などとテケトーな予定の著書はない。すっかすかで中身の薄い本を次々と出すなんてことは、エージェントが許さない。シリーズもののスリラーの著者でも1年に1冊出していれば、ファンはついてくる。
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出版バブルは自業自得、流行を追う者はやがて廃れるだけ—No tears should be shed for insta-hits | Books and the City
US, UKのいわゆる文芸ものはそうだよね。ただ、日本でも村上春樹や大江健三郎レベルになれば、US, UKのエージェントモデルに近いかも。
またもちろん、USやUKでも自己啓発書やビジネス本のたぐいや宗教系・オカルトやラブロマンス系のトラッシュ本には日本と同じような流行だけのバカ本がかなりある。Time managementがなんちゃらだとかGTDがどうたらだとか。あと、サラ・ペイリンの自伝なんかも典型的な流行だけを追ったバカ本だよね。
一方で、日本の出版は流行を追いがちなトラッシュ本が多いというのは事実で、たぶんそれは大原さんが書いているように、本を金融として流通させる取次モデルのために、最低限ある量の出版数を確保しないと自転車操業としての出版ビジネスを回せない、というのが一番大きいと言われている。数を確保するためには、当然その数を出すことが期待できる著者に依存しがちになるし、本を書く敷居がとても低くなる。
ここまでは供給側の事情だけれど、実は需要側の事情というのもある。日本ではUSやUKのような本をよく読み、本をよく買う知識階級という層がそれほど明確でない。USやUKはブルーカラーや貧困層はまったく本を読まないからね。日本は、識字率が高いということもあり、本を読む側の知性水準が層化されないから、当然本を買う層の知性水準の期待値みたいなものがUSやUKに比べてどうしても低くなる。
このより低い知性水準の期待値に向けて、供給側が数を稼ぐためにリソースを投下するから、どうしてもモギ・カツマバブルみたいなものが起きるんだよね。これは供給側の事情と需要側の事情が固く結びついたある種の生態系みたいなもので、本当にイヤだけれど、もう仕方がないとしか言いようがないね、現状は。
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